| |あんたって詩人なの?| |
![]() 下 (2005年9月12日完成/作:森 綾香) |
| 穴だらけの壁、そして、引き裂かれた布団の綿が飛び散り、ハムスター小屋ようなありさまとなっている6畳間の部屋で、カーテンを締め切り、少年は一人丸まっていた。 (無理やり変な約束させられちゃった。今日終わるはずだった僕の命が、10年ものびてしまった。明日どころの話じゃない。) 見知らぬ男との単なる口約束である。別の日を選んで同じビルの屋上から飛び降りてもいいわけだし、また、別のビルを探して飛び降りることもできた。けれど、今の少年には、なぜかそんな気が起きなかった。10年という寿命のリミットを設定されたおかげで、生きる勇気という程でもないが、まだ生きてもいいかもしれないと、思え始めたのだ。 (10年後死んで良いのなら、そんなに怖くないかもしれない。) 自らあけた、痛々しい壁の穴ぼこの淵を手でなぞる少年。少年が手で軽くなぞるたびに、ボロボロと壁の土が崩れ落ちた。 (僕が学校へ行くのをやめたことが、これから先の人生の何もかもに悪影響を与えて、全ぶが狂いはじめるっていうのなら、すごく怖い・・・すごく怖くて、今すぐにでも死んでしまいたい。だけど、どんだけ僕の未来が狂っても、お先が真っ暗でも、10年後全てを投げ出すことができるなら、そんなに怖くない・・・) 大学を受験するには、定時制高校を卒業するか、大検を受ければ可能になることが分かった。少年は動き始めていた。家族たちは、少年の豹変振りに驚きを隠せなかったが、良い兆候として手をとりあい喜びあった。絶望と心の叫びを打ちつけた穴だらけの壁を覆い隠すように、家具の配置を変え、少年は部屋の模様替えをした。カーテンレールめいっぱいに開け放たれたカーテン。半年ぶりに、少年の部屋に陽の光が差し込んだ。机の前にへばりつき、参考書を抱え、必死にノートに鉛筆を走らせる。 だけれど、いつも順調ということもなく、大検にもイキナリ失敗をした。大検だけじゃない、この手の失敗はいくつもあった。少年は、そのつど、絶望しそうになった。そんな時は、決まって、あの屋上に行った。男は居なかったが、フェンス越しに遠い地上を見下ろし、男の言葉を脳裏に呼び起こした。ケシ粒のように小さな人間が、右に左に動くのが見える。 ≪10年経って、たとえお前が自殺しても、俺はお前の人生に喝采を送ってやる。≫ そうはつらつと笑った男の言葉。ちょっとだけヤニ臭かった男の上着。少年は男の言葉を唱えるように、自分に言い聞かせる。何度も、何度も・・・くりかえし。 そして−− とうとう男との約束の日が来た。明るい顔で駆け出す青年。少年は10年の年月を経て、すっかり青年となっていた。小気味良いリズムで階段を駆け上る。 (僕はあれから、2度大検を受けました。大学にも受かりました。) 青年は輝いていた。この10年間、男に言われたとおり、ずっと前向きに行動し続けた結果だ。結果的に、全てがポジティブに働いていた。青年は男と会った際、この充実をどう伝えんとするか、そんな喜びで一杯だった。男に対面するまで、とても待ちきれなかった。だから、心の中でまだ見ぬ男に向かい、つい語りかけてしまう。 (大学では友達もできました。面接に何度も落ちたけど、就職もできました。今、恋もしています。今の僕があるのは全部あなたのおかげです。あなたに見せたい、今の僕を。今日は僕のもう一つの誕生日です。あなたに見せたい。) 階段を上りきった青年は、勢い良く扉をあけた。あの男の待つ、屋上への扉だ。しかし、息をはずませ屋上へと辿り着いた青年を待っていたのは、あの男ではなかった。一人の中年女性だ。青年がきょろきょろと見回していると、女がおずおずと歩み寄ってきた。 「あなたが新(アラタ)さんですか?」 青年に声を掛ける。怪訝そうに女を見つめ返す青年。 「え、あ、はい、そうですが・・・」 「篠崎の妻です。」 篠崎・・・あの男の姓だ。ますます怪訝に思い、戸惑った顔で疑問をなげかける青年。 「あの・・・おじさんは?」 夫人はしばし押し黙り、青年を凝視した後、長いまつげを伏せ、一瞬曇ったような顔をした。そうして、再び青年を見つめ返すと、静かに口を開いた。唇が悲しげに笑う。 「篠崎は死にました、5年前に交通事故で。」 脳天を鈍器で殴られたような強い衝撃を覚え、立ち尽くす青年。一瞬目の前が真っ暗となり、やがて、くらくらとめまいを催す。一人で体を支えられず、青年は思わず近くの壁に手を添えた。 「あの人は、あなたの事をとても気にしていました。私達は子供もいない夫婦でしたから。」そこでいったん言葉を切ると、再び夫人はゆっくりと、そして、申し訳なさげに語り始めた。「今日という日にこんなことを伝えるのは、本当に忍びなかったんですけど・・・だけど、私も一度あなたにお会いしてみたくて・・・」 もはや、夫人の言葉の後半部分が、青年の耳には全く入ってこなかった。ただ、夫人の赤い口紅の輪郭が、魚のように無機質に動いているように見えた。全身の血の気が引き、次第に息ぐるしくなってくる。やがて、へなへなと床にへたりこみ、青年は両腕をつっぷして泣き出した。打ちっぱなしのコンクリに、大きな水滴がぼたぼたと落ちては、ゆっくりと乾いてゆく。今日はいつになく風が強い日だ。青年は激しく咳き込みながらも、嗚咽をあげ続ける。それをただ鎮痛な面持ちで見つめる夫人。 しばし、泣きじゃくった後、青年はやおら顔をあげ、フェンスに駆け寄った。すっかりさび付き赤茶けたフェンスに指を食い込ませる。ワッサワッサと音を立てながら、勢いよく高いフェンスをよじのぼってゆく。驚いた顔の夫人。しかし、夫の遺言で、青年の自殺をくい止めることを決してしないと約束をさせられていた夫人は、両目をぎゅっと瞑り、衝動的に青年をくい止めたいと欲する両手を押しとどめるように、スカートのふちを握り締める。指の端からもれるやわらかな生地が激しくゆがみ、全身が小刻みに震えている。 青年の脳裏にふと過ぎる。 (昔の僕だったら、こんな時、真っ先に死にたくなったかもしれない。) そうして、フェンスのてっぺんから身を乗り出し、青年は泣きながら叫ぶ。遠い空に向かい。 「今の僕があるのは、あなたのおかげです!」乾いた風が青年の前髪を煽る。青年は風の音に負けないよう声を張り上げ、叫ぶ。「10年経って、僕は生きることに決めました!僕は生きます、明日も、あさっても、しあさっても、僕は生きますから!!」 顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった。涙はすごくしょっぱかった。風が青年の声を男の元へと運んでくれる様な気がした。いつしか、10年後に死んでいいなんてそんなルールは青年の頭の中から消え去っていた。今日より明日、明日より明後日が良くなるように、ただ、ひたすらガムシャラに生きていた。 |
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